なぜ 東旭川に旭川神社が?

旭川発祥は旭川屯田

明治23年、旭川、神居、永山が、開村し、25年には、神楽村が開村しました。明治24年〜25年にかけて、永山・ 旭川・当麻へ屯田兵が入植しています。その地域から、屯田兵が開墾していますから、そこから発展したことになります。
この東旭川から豊岡・東光にかけての地域は『旭川兵村』でした。その他の区域(現在の旭川市街方面)は、もっと後に発展しており、当時は「忠別市街地」と呼ばれていました。

明治30年になり、忠別市街地の戸口増加(七師団の移駐関連)にともない、同年、ひそかに北海道庁を動かして、本来の旭川であった旭川兵村を永山村に編入し、これを「永山村字ウシシュベツ」と称し、残る地域の忠別市街地を「旭川」として独立させるのに同意させ、同年12月道庁告示により公表したのです。

この処置は、旭川兵村の住民に一言の交渉もなく行われたもので、これを知った屯田兵たちは納得がいくはずもなく猛烈な非難となって村民一丸となって反対運動が起こり、直ちに旭川兵村より井川伊八郎ら五名の屯田兵が北海道庁を訪れ、訴えることになりました。
それにより、非を認めた道庁ではありますが、すでに「旭川」と呼ばれている町を、変更することは不可能であり、打開の策として 明治31年、以下の通り道庁が上げた案で合意に達しました。

 北海道庁告示第一八三号

  ―中略― 旭川ノ名称ハ当兵村の固有ニ有リ之開村以来ノ公称ニシテ広ク世上ニ認識セラレ来歴明瞭ナル―中略― 旭川ノ上二東ノ一字ヲ加ヘテ東旭川ト公称スルコトトシ更二此ノ歴史的事実ヲ残ス当初カラノ公称デアッタ旭川小学校及ビ 旭川神社ノ名称ハ永久ニ東旭川ガ称ヘルベキコト。―中略―

明治31年9月6日

                              北海道庁長官

つまり『旭川の発祥であるのは、東旭川であるということを後世に残すため、そのまま学校や神社等「旭川」の 名を使用して良い』という許可がおりたのです。
現在も、東旭川の中心にある神社が『旭川神社』。
小学校も『旭川小学校・旭川第一〜第五小学校』。
中学校も『旭川中学校・旭川第一〜第二中学校』。
等『旭川』という名称で、東旭川から、豊岡、東光にかけて残っているのは、そ
の地域が元の「旭川兵村」の地域だったからです。

一時、永山村に編入されてしまっていた旭川兵村は、再び分離し、ここで初めて、今の「東旭川」という名をつけたのです。

本当は、この区域こそが『旭川』でした。
ご不明な点があれば、旭川兵村記念館へお越し下さい

 ○参考資料  

『東旭川町史』
『史料 旭川屯田 (玉井健吉著)』
『屯田兵村に生きる(玉井健吉著)』
『屯田兵絵物語  (金巻鎮雄編)』