9月10日は旭山動物園がある旭山中腹に鎮座する 旭山稲荷金刀比羅神社の秋祭の日。
秋祭りは秋の収穫を神に感謝する祭り。
今回は緊急事態宣言下ということで神職と役員数名にて奉仕いたしました。
普段は当日準備ですが、今回は当日の人数の関係で事前に行う事になりました。
朝から社殿の掃除、のぼり立てを終え、休憩していると会話の中で「ここをきれいにしたい」「ここを塗りたい」など改善したいことを話していく中で、「よし!今日やろう!」ということになり、三人で昼から作業をすることになりました。
化粧砂利敷き等、結構ハードな作業となりましたが、境内きれいになりました。
由緒看板もだんだん文字が薄くなり読みにくくなりましたので今回作り替えることになりました。
この機会に由緒看板の分を文字データにしましたので参考までに載せさせていただきます。
○旭山稲荷金刀比羅神社畧記
旭山は初め登口右側の崖を屯田第四中隊の射朶(しゃだ)としていた
ので射的山と呼ばれていたが明治三十一年秋熊本県出身の
菊地直人大尉が第四中隊長として着任すると早々高見庄
吉軍曹や芦原伊佐男宮司等と共にこの山頂に登り四面一望
の景勝地であるところからここに神社を建て一大公園にすべし
との決意を固め大樹の幹を削って天照皇大神宮と大書した。
これが旭山開発の第一歩である。
次いで明治三十二年皇大神宮御分霊は役場前の旭川神社
に奉斎されたので明治三十六年内宮外宮の関係になぞらえ
豊受大神宮の同系神たる稲荷神社を奉斎しこれより稲荷山
と呼ばれるに至った。さらに明治四十一年社殿造営の機会に
金刀比羅宮を合祀し昭和二年旭川神社造営の時に不用に
なった旧本殿(明治二十六年造営屯田兵屋に次ぐ古建築で現在のもの)を
譲り受け昭和十一年社殿の修繕並びに社務所の新築等を
なし今日に至っているがこの間難病平癒、商売繁昌、社運
挽回等あらたかな霊験を受けた実例は数え切れない。
日露の大戦時に屯田戸主を始め若者はことごとく出征して
残るは老幼婦女子ばかりとなり寂しく留守をつとめていた。
この時誰かが山の中腹の稲荷神社に小さなカンテラ灯を献じて
戦地にある肉親の武運長久を祈り心の支えとした。それから
村中もこの灯がともらなければ心細くなり村人達は順番にこの
カンテラに油を注ぐために深い笹薮をかき分けて登っていくよう
になった。
それから百十有余年、山の様相も一変したとはいえこの神社
は今も郷土住民と深く結びついた心の灯であり、又尊い史蹟
文化財として大切に護らなければならない。
稲荷神社創祀に関する記録は旭川兵村記念館に陳列され
ている。
旭山の入口(現在の旭山動物園の登口当たり)に鳥居が建っていた時代がありました。
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